こんにちは。アトリエKW 代表の 渡邉響子です。
西洋美術・絵画史を紹介するコーナー。主に画家の生涯、作風に焦点を当てて紹介しています。
第三回目の今回は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ です。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ は 1571年、イタリアで生まれた画家です。
ルネサンス期の後に登場し、それまでの絵画になかった「見たままの姿」を描く手法、そして光と陰の明暗を明確に描き分けその場面をドラマチックに演出する技法が、のちに続くバロック絵画の形成に大きな影響を与えました。
前回、前々回の美術史の勉強で登場したバロック期の画家、レンブラントもフェルメールもカラヴァッジオの明暗の描き分けの手法に大きな影響を受けています。
バロック期という一つの時代の先駆けの偉大な画家としても認知されていて、その功績からイタリアでは10万リラ紙幣にカラヴァッジオの肖像画が使われていました。(2000年当時)
そんなカラヴァッジオ。生きている間に画家として高い評価を受け、パトロンもついていたので金銭面では困ることはなかったようですが、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアと逃げ回るような生活を強いられたり、当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどの波乱に満ちた人生でした。
なんでそうなるんよ!って思いますよね。
実はカラヴァッジオ。ものすごい荒くれもので人を殺めてしまってもいるんです・・・
そうなんです。逃げ回っていたのは、その土地土地で暴力沙汰を起こし追われる身になったからなんです。
では、バロックの先駆者、カラヴァッジオの生涯についてみていきましょう。
ルネッサンスの後期の異端児
1571年、ルネッサンスの後期に生まれたカラヴァッジオは、ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ (Simone Peterzano) のもとで4年間徒弟として修行した後に画家人生を始めようとします。
しかし1592年におそらく喧嘩で役人を負傷させミラノからローマへ逃げ出します。
いきなりかい!
着の身着のまま逃げ出したので無一文状態だったのですが、数か月後、画家のジュゼッペ・チェーザリ の工房で助手を務めたりして生計を立てます。
それもつかのま、しばらくしてひどい病気にかかり工房を解雇されてしまいます。
それでも、そのころに描いた「果物の皮を剥く少年」「果物籠を持つ少年」「病めるバッカス」という3つの絵が高い評価を受け、ひとりで画家として生きていけるようになります。
まだこのころの絵は、「これぞカラヴァッジオの絵だね!」というようなパンチの効いた絵ではないです。
しかしながら、この「トランプ詐欺師」という絵。
ルネッサンス後期という時代背景の中の絵としては異彩を放っているものです。

カラヴァッジオ独特の明暗の差をはっきりと描く手法は、まだこのころには見られませんが、登場する人物の表情の描写がとても豊かで観る人を惹きつけます。
手前の詐欺をはたらこうとしている少年と、これから騙されるとはわからずにカードゲームを純粋に楽しんでいるように見える少年。
その横では、いたいけな少年のカードをのぞき込んで詐欺師の少年にサインを送る中年男性。
きっとね、詐欺をはたらこうとしている少年は、この中年男性にそそのかされてやっているような気がします。
目が泳いでいるような感じがしませんか?
こういったことをするのは初めてで慣れていないんじゃないかって感じるんですよね。
・・・と、たった一つの情景で見た人にいろいろと想像をさせるとても素晴らしい絵です。
現代では、マンガなどで「そんな情景とか表情を描くのあたりまえじゃん!」ってなりますけど、ルネッサンス後期という時代背景から考えると異質な絵です。
なにしろギリシャ・ローマ神話の世界、新約聖書の世界を描いている絵が最高の絵であり、登場する人物は特に表情もあまりなく、ただただ均整の取れた肉体を描くこと、そして安定した構図の絵を描くことが素晴らしいとされていた時代。
こうした生き生きとした情景の絵を素晴らしいと褒める人もいれば、絵画としてはこれはダメだとけなす人もいたようです。
ローマで一番有名な画家へ
賛否両論ある中で、カラヴァッジオの絵は次第に世に受け入れられていきます。
1600年ごろに描かれた「聖マタイの召命」
日本では関ヶ原の戦いの年。東軍と西軍に別れ天下分け目の大戦をしてたころです。

もうこのころの絵は、光と陰をはっきり書き分け情景をドラマチックに演出する技法を使っています。
当時のほかの画家が描く絵にはない独自路線です。
下手すると誰からも認めてもらえず、売れない画家として一生を終える・・・なんてこともありえたわけですが、時代はカラヴァッジオの味方でした。
当時の人たちには、このドラマチックな演出がそうとうかっこよく見えたわけです。
一躍ローマで一番有名な画家になっていくわけです。
私は音楽やってたのもあって、ロックの歴史でも同じようなことあるなぁと思ったりします。
時代ごとにムーブメントを作ったロックスターたちと被るんですよね。
それまでの流行っていた音楽の殻をぶち破って、最初はあまり理解されず異端児と言われながらも、自分たちの音楽を信じてやり通す。
そういうロックな魂をカラヴァッジオに感じるんですよね。
それにしてもこういう明暗差をはっきり出す手法を、カラヴァッジオはどこから着想したんだろう?って思います。

でも結局逃げ回る人生
画家として大成し、順風満帆な人生を送れるはずだったんですが、生来の暴力的な性格があだとなります。
いたるところで暴力沙汰を起こしてしまいます。
ついには 1606年に、おそらく故意ではないものの若者を殺害。
これまで暴力沙汰をおこしても味方になってくれてた人たちも、さすがに擁護できなくなり、逃げ回る生活を余儀なくされます。
それでも、絵の腕はあるので、移り住んだ土地土地で絵を描いて生活できたようです。
そんな生活をしていたカラヴァッジオも、反省の念?が現れてきたのかなぁというのが、後年の絵に現れます。
それまでのカラヴァッジオの絵は、宗教画にしても残虐シーンを描かれていることが多いです。
首を切っているところの絵や、切った後さらしてる絵など。ほかにも無理やり押さえつけて暴行加えてるように見える絵など。
宗教画というのは新約聖書の中に出てくる逸話の中からその情景を描くのですが、なぜその暴力シーンを選んだ?的な絵が多い。
もっとほんわかするエピソードのところでもよさそうなのに・・・・
そういった暴力シーンも多かったために、依頼人が買い取ってくれず別の絵を描きなおして売るということもしばしばあったようです。
その、カラヴァッジオ後期の絵で斬首の絵が2枚あるんです。「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ 」という絵と、「ゴリアテの首を持つダビデ」です。
ちょっとグロいのでここでは紹介しませんね。気になる方は検索してみてください。
この2枚の絵に登場する斬首された首、要は生首ですが、その首の顔がカラヴァッジオの自画像なのだそうです。
絵の中で自分の首を飛ばし反省の念を表しているようです。
が、どうやらこの絵を描くことで反省の意志を表明し恩赦を得ようとしていたようです。
なので本心から反省していたのかどうかはわかりません。
そういった反省の念を表したりした甲斐があったのか、方々手を回してくれた協力者もいて、1610年、やっと恩赦を受けられるようになります。
ですが、恩赦を受けに行くためにナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去してしまいます。
享年38歳。早すぎる死でした。
・・・んーー当時は医療も発達していなかったので、やむを得ないことだったのでしょうが、なんかもったいない・・・
もうちょっと生きていれば、バロック期にカラヴァッジオの影響を受けるレンブラントやフェルメールとも同時期に活躍できたわけで、もしそうなってたらどんな世界だっただろうと想像してしまいます。
最初にも書いた通り、バロック期の画家たちに多大なる影響を与えた画家として現代では大きく評価されています。
その評価につながったのは、やはり自分を貫いたカラヴァッジオのロック魂があったからだと、感じずにはおれません。
ただね、やっぱりね・・・・
暴力はダメですな(^^;